今夜は、博報堂時代の先輩コニタンこと小西さんのクラスでした。
今やご自身の会社で、CM制作に留まらず商品開発から、ホテルやレストランなどの街づくりや国の戦略構築も行っている方だ。
予想通りでしたが、ほんとメモの嵐。
久しぶりに「本質的な言葉のやり取り」を聞いたなあ、と。あ、やり取りと言ったのは、このクラスを佐藤夏生氏も受けられていたからだ。
このブログでは、よく出て来る名前なのでご存知の方も増えたかもだが、当学園で開園記念のクラスをやってもらった、こちらも博報堂時代の先輩だ。今やご自身の会社で、こちらも広告プロモーションから、商品開発、事業開発、VI、CI、空間デザインや都市のブランディング等、クリエイティブの社会実装を実践されている。
同じ空間に、僕も含めると博報堂を辞めた人間が3人いた。そして博報堂を辞めていった人間のことを、この業界では『脱博者』と呼んでいる。ちなみに、僕は博報堂を卒業はしておらず、中退したと言っている。卒業したなんておこがましくてとても言えない。
話を戻すと「本質的な言葉のやり取り」、失礼ながらだが今日の出席者の方で、ここを十二分に理解されていた方がどれくらいいらしたかは僕には解らない。それくらい幾度か話が深いところまで行ってしまった。もっと言うと、さらに深いところまで行きそうになる度に、浅いところへ引き戻す作業をしていたのが自分だ。
でも思い返してみると、博報堂時代はそんな会議の連続だったなあ、と。最終的にアウトプットされる言葉というのは「コピー」と呼ばれるもので、シンプルで強くて、当然誰にでも解りやすい言葉であるのだが、そこに行き着くまでの過程での会議中に飛び交う「言葉のやり取り」というのは、時に頭の悪い自分には理解不能なことも多かった。
もっと言えば新人時代はもちろん、お恥ずかしい話だが中堅になっても時折『この人達なに言ってるんだろう?』ってスタッフに思うこともあった。それは難解な言葉が使われている、ということではなく議論ポイントの難易度が高く、ある論理とある論理をぶつけ合ってるのだが、お馬鹿ちゃんな僕にはどっちの論理が何を言っていて、もう一つの論理は何を言っているのかがさっぱり解らず、終いには何について議論しているんだっけ?みたいなこともある。まあ、そんな時でも旗振り役である営業の僕は、そんな素振りを見せることなく、話が平易に解りやすくなって来るまで内心ヒヤヒヤしつつ笑いながら待つこともあった。
つまり何が言いたいかというと、「言葉」というのは、アートや音楽やスポーツと同じレベルで扱われるべきものだよ、ってこと。絵が上手い、ピアノが上手い、サッカーが上手い、って言えば、各々にプロフェッショナルが居て、鑑賞者もそのことを理解して、対価を払う。ただ、この「言葉」というのは少し厄介で、生活者の方ほぼ全員が何かしらの形で日常的に扱えるものである。そのことで、「言葉」というものを誰しもが平等に扱えているプレイヤーだ、という錯覚にあるように感じるのだ。
でも、これは全く違う。
「言葉」も先ほどのアートや音楽やスポーツと同じで、練習や鍛錬でこそ磨かれ、アマチュアとプロフェッショナルが明らかに存在するのだ。少なくとも博報堂に居た人間というのは、プロフェッショナルな集まりだ。その「言葉」を武器にクライアントさんからお金を頂いているのだから、当然のことだ。
先ほどの社内会議に始まり、協力機関やメディアさんとの打ち合わせ、さらにはクライアントさんへのプレゼンテーション、そして最終的なアウトプットである広告制作物。ここで使用・表現される「言葉」というのは、全てプロフェッショナルたちが紡いできた産物だ。
僕自身17年間、博報堂に育てられてきた訳だが、会社というよりは大学卒業後、大学院に通っていたような感じだ。日々勉強をさせてもらっていた、しかもお給料を頂きながら。この表現は、当時のクライアントさんには大変申し訳ないが、それくらい社内には優秀な人間が山といて、その賢い人間たちとの沢山の言葉のやり取りこそが日々の鍛錬で、自分をとことん強くしてくれたと思っている。大の大人が恥ずかしい思いや悔しい思いを腐るくらいしてきて、もう覚えてすらいない。
今夜の小西さんのクラスは、そんな自分の社会人時代の青春を想い出させてくれる、少しだけ甘酢っぱい時間となりましたとさ。ちゃんちゃん。